今週のお題「我が家の本棚」
堕落とかの前に、新型コロナへの緊迫感のなさが危機感を覚えるレベル
新型コロナが、またしても勢力を拡大している。
春夏の時点で、冬頃に改めて波がくるだろうと予想されていた通り、やはり再度のコロナ禍はやってきて、東京での感染者は毎日歴代最多を更新しているような有様だ。
しかし、前回パニック映画さながらの世界になった時と比べて、今のこの安心しきったぬるま湯みたいな雰囲気はなんなのだ。
Go Toキャンペーンだなんだと一時的に警戒が解かれたときと、ほぼ変わりのない緊迫感のなさだ。事実、街には普通に人があふれ、そこら中で密が発生している。
なんだろう、1は怖かったゾンビ映画も3くらいになったら、見慣れすぎてもう怖くないみたいな、そんな感じなのだろうか。
ある意味、これがwithコロナの正解の姿なのだろうか。
ただ、それにしたってこの社会全体にあふれる安堵感は、とても怖いものがある。
ちなみに本来書きたかったテーマは、わりと下のほうにいかないと出てこない。
余談のほうが熱量の高いブログになってきている。
ただそもそも人間の脳はめっちゃ楽天的な処理をするらしい
人間の脳には、インプットされた情報を楽観的に処理しようとする働きがあると、サラリーマンにして哲学者の友人・ATSUSHIがHUBで言っていた。
自分だけは大丈夫。その考えは生存本能につながる自然な思考回路らしい。
わからなくはない。おれもなんだかんだ、自分だけはコロナにかからない気になっている部分もある。
ATSUSHIは豊富な知識で巧みに信憑性をマシマシにしながら、肝心な部分で意図的に大嘘をついてくる天才的なペテン野郎だが、その説はなにげに本当のような気がする。
不幸にとって一番悲劇なのは、その存在を笑いに変えられること
あとこれはおれの美学というか、人生へのファイティングポーズだが、死を含めた不幸な出来事をすべて笑いとばしたいという欲求がある。
そう、全部笑いに変えてやりたい。
人間はどん底でも、そのどん底で這い回る姿を笑うことができれば、なんとか生きていけるのではないか。
死や不幸にとって一番悲劇なのは、その存在を笑いに変えられることなのではないか。
そう無表情の中で、熱く思っている。
アルコールのせいか脈絡なく格好いいことを言ってしまった。
すまない。
iTunesでTOP50にランクインした
まあ待っているのが悲劇にしろ、とにかく生きていかなくてはいけないのだ。
それに明日がわからぬこの状態であっても、少なくとも今日の時点ではやらなきゃいけない仕事だって山積みだ。
よし、やるか!
上記の決意をしてから、1時間が経った。
よし、やるか!と書いたおれは、コーヒーの湯気と共に消え失せたようだ。
明日なき身でなにが悲しくて仕事やらなきゃいけないのだ。
やめだやめだ、酒もってこい!
というわけで、仕事を捨てた時間でまた曲を作った。
ちなみにこの曲の入ったアルバムが「iTunesで26位」になっていたと先週知った。
自身でも半信半疑だが、ちょっと箔がついた。
この曲は堕落論(内容ではなく題名から匂いたつイメージ)をもとに膨らませていった、なかなかに文学的な一曲だ。
そういえば人間は情報を楽観的にうんぬんの内容を、坂口安吾の堕落論でも書いてあったのを、すごく薄ぼんやり記憶している。
なんか空襲で街が燃えてるようなすげえやばい時でも少女たちはめっちゃ笑ってるし、けっこうみんな呑気でちょっとワクワクしている。
みたいなことを書いているような部分が、なんだかあったような気がする。
そのシーンがあったか確かめるにも、手元に堕落論と心に気力がないから、話半分で聞いておいてください。
とにかく昭和初期、ノイジーで混沌とした妖しさ漂うあの昭和初期のダンスホールやカフェーの淀んだ空気感を意識した曲だ。
おれ feat.江戸川乱歩
ただ作りこんでいくうちに坂口安吾からはどんどん離れ、どちらかといえば江戸川乱歩の世界観にめっちゃ近づいていった。
要するにエログロナンセンスな感じだ。
曲に「feat. 江戸川乱歩」とつけたいくらい、かなり濃度の高い乱歩度だ。
もう途中から「堕落論」は形だけの存在になって、奥田民生のマシマロは関係ない本文と関係ないみたいな状態になった。
堕落論って言葉が格好いいと思っているだけだろ
で、こっからは偏見と独断によるおれの堕落論論だ。
ずっと思ってたのだが、堕落論が好きって言う奴は、本の内容ではなく「堕落論」という言葉に魅力を感じてるだけなのではないだろうか。
高円寺あたりには今も「好きな本は堕落論」みたいなことを言う奴が多くいる。
少なくとも、おれの好きだった女子の元彼は、高円寺に住んでいて堕落論が好きだという奴らしい。
で、おれは上記のような堕落論フリークの連中に思うところがある。
私情は抜きにしても思うところがある。
『堕落論』て言葉に惹かれているだけだろう。『堕落論』って言葉がかっこいいと思ってるだけだろう、と。
はっきり言って、堕落論を好きという奴の8割超は、堕落論を読んだことがないとさえ思っている。
もちろん、続編の「続堕落論」にいたっては、存在も知らないのではないかと思っている。
堕落論(と人間失格)は読んでなくても、小脇に抱えていれば格好いい本、もしくは本棚に置いてあればそれだけで格好いい本、みたいにファッションとして好きと言っているだけだと思っている。
まあなんでそう思うかというと、堕落論って単語と、坂口安吾っていう退廃的かつ無頼派のイメージが、それだけ格好よすぎるからだ。
本を読んでなくても格好いいと思えるくらい、イメージが先行してしまっている。
太宰治しかり、中原中也しかり、文豪ストレイドッグスどもの退廃的な格好よさは、ミーハーを引きつけるほど中2病の光を放っている。
大体、今この令和に生きている人間が、堕落論を読んで感動なんてするわけないのだ。
感動っていうか、共感なんかするわけがないのだ。
あれは感覚がある種いかれて麻痺してた戦中の日本人の道徳観を前提として書かれている内容だからだ。
で、あの時代の「一般的な感覚」自体が、現代人とめちゃくちゃずれているから、結局あの本のメインテーマである「堕落」の定義も、2000年代を生きている日本人の「堕落」とがっつりずれているのだ。
だからおれは、堕落論を好きと言う人間を信じない。
「堕落論」って言葉と雰囲気が好きなだけってはっきり言う奴は信じる。なぜならおれ自身もそうだからだ。
現代では堕落もファッションに墜ちたと嘆きながら今日は寝ます。
おやすみなさい。
まだ寝ないなら、僕の曲でも聴いてみてください。