この丸メガネはミュージシャンなの?

音楽ブログを早々に諦め、ゆるめのサブカルブログへ男は舵をきった

堕落論と人間失格は本棚用のファッションと聞きました

今週のお題「我が家の本棚」

坂口安吾の部屋

堕落せよ

 

堕落とかの前に、新型コロナへの緊迫感のなさが危機感を覚えるレベル

新型コロナが、またしても勢力を拡大している。

春夏の時点で、冬頃に改めて波がくるだろうと予想されていた通り、やはり再度のコロナ禍はやってきて、東京での感染者は毎日歴代最多を更新しているような有様だ。

しかし、前回パニック映画さながらの世界になった時と比べて、今のこの安心しきったぬるま湯みたいな雰囲気はなんなのだ。

Go Toキャンペーンだなんだと一時的に警戒が解かれたときと、ほぼ変わりのない緊迫感のなさだ。事実、街には普通に人があふれ、そこら中で密が発生している。

なんだろう、1は怖かったゾンビ映画も3くらいになったら、見慣れすぎてもう怖くないみたいな、そんな感じなのだろうか。

ある意味、これがwithコロナの正解の姿なのだろうか。
ただ、それにしたってこの社会全体にあふれる安堵感は、とても怖いものがある。

ちなみに本来書きたかったテーマは、わりと下のほうにいかないと出てこない。
余談のほうが熱量の高いブログになってきている。

 

ただそもそも人間の脳はめっちゃ楽天的な処理をするらしい

人間の脳には、インプットされた情報を楽観的に処理しようとする働きがあると、サラリーマンにして哲学者の友人・ATSUSHIがHUBで言っていた。

自分だけは大丈夫。その考えは生存本能につながる自然な思考回路らしい。

わからなくはない。おれもなんだかんだ、自分だけはコロナにかからない気になっている部分もある。

ATSUSHIは豊富な知識で巧みに信憑性をマシマシにしながら、肝心な部分で意図的に大嘘をついてくる天才的なペテン野郎だが、その説はなにげに本当のような気がする。

不幸にとって一番悲劇なのは、その存在を笑いに変えられること

あとこれはおれの美学というか、人生へのファイティングポーズだが、死を含めた不幸な出来事をすべて笑いとばしたいという欲求がある。

そう、全部笑いに変えてやりたい。

人間はどん底でも、そのどん底で這い回る姿を笑うことができれば、なんとか生きていけるのではないか。
死や不幸にとって一番悲劇なのは、その存在を笑いに変えられることなのではないか。
そう無表情の中で、熱く思っている。

アルコールのせいか脈絡なく格好いいことを言ってしまった。
すまない。

iTunesでTOP50にランクインした

まあ待っているのが悲劇にしろ、とにかく生きていかなくてはいけないのだ。

それに明日がわからぬこの状態であっても、少なくとも今日の時点ではやらなきゃいけない仕事だって山積みだ。

よし、やるか!

上記の決意をしてから、1時間が経った。
よし、やるか!と書いたおれは、コーヒーの湯気と共に消え失せたようだ。

明日なき身でなにが悲しくて仕事やらなきゃいけないのだ。
やめだやめだ、酒もってこい!
というわけで、仕事を捨てた時間でまた曲を作った。


ちなみにこの曲の入ったアルバムがiTunesで26位」になっていたと先週知った。

自身でも半信半疑だが、ちょっと箔がついた。

 

youtu.be

 

この曲は堕落論(内容ではなく題名から匂いたつイメージ)をもとに膨らませていった、なかなかに文学的な一曲だ。

そういえば人間は情報を楽観的にうんぬんの内容を、坂口安吾堕落論でも書いてあったのを、すごく薄ぼんやり記憶している。

なんか空襲で街が燃えてるようなすげえやばい時でも少女たちはめっちゃ笑ってるし、けっこうみんな呑気でちょっとワクワクしている。
みたいなことを書いているような部分が、なんだかあったような気がする。

そのシーンがあったか確かめるにも、手元に堕落論心に気力がないから、話半分で聞いておいてください。

とにかく昭和初期、ノイジーで混沌とした妖しさ漂うあの昭和初期のダンスホールカフェーの淀んだ空気感を意識した曲だ。

おれ feat.江戸川乱歩

ただ作りこんでいくうちに坂口安吾からはどんどん離れ、どちらかといえば江戸川乱歩の世界観にめっちゃ近づいていった。
要するにエログロナンセンスな感じだ。
曲に「feat. 江戸川乱歩」とつけたいくらい、かなり濃度の高い乱歩度だ。

もう途中から「堕落論」は形だけの存在になって、奥田民生のマシマロは関係ない本文と関係ないみたいな状態になった

堕落論って言葉が格好いいと思っているだけだろ

で、こっからは偏見と独断によるおれの堕落論論だ。
ずっと思ってたのだが、堕落論が好きって言う奴は、本の内容ではなく堕落論」という言葉に魅力を感じてるだけなのではないだろうか。

高円寺あたりには今も「好きな本は堕落論」みたいなことを言う奴が多くいる。
少なくとも、おれの好きだった女子の元彼は、高円寺に住んでいて堕落論が好きだという奴らしい。

で、おれは上記のような堕落論フリークの連中に思うところがある。
私情は抜きにしても思うところがある。

堕落論』て言葉に惹かれているだけだろう。堕落論』って言葉がかっこいいと思ってるだけだろう、と。

はっきり言って、堕落論を好きという奴の8割超は、堕落論読んだことがないとさえ思っている。
もちろん、続編の「続堕落論にいたっては、存在も知らないのではないかと思っている。

堕落論(と人間失格)は読んでなくても、小脇に抱えていれば格好いい本、もしくは本棚に置いてあればそれだけで格好いい本、みたいにファッションとして好きと言っているだけだと思っている。

まあなんでそう思うかというと、堕落論って単語と、坂口安吾っていう退廃的かつ無頼派のイメージが、それだけ格好よすぎるからだ。
本を読んでなくても格好いいと思えるくらい、イメージが先行してしまっている。
太宰治しかり、中原中也しかり、文豪ストレイドッグスどもの退廃的な格好よさは、ミーハーを引きつけるほど中2病の光を放っている。

大体、今この令和に生きている人間が、堕落論を読んで感動なんてするわけないのだ。
感動っていうか、共感なんかするわけがないのだ。

あれは感覚がある種いかれて麻痺してた戦中の日本人の道徳観を前提として書かれている内容だからだ。
で、あの時代の「一般的な感覚」自体が、現代人とめちゃくちゃずれているから、結局あの本のメインテーマである「堕落」の定義も、2000年代を生きている日本人の「堕落」とがっつりずれているのだ。

だからおれは、堕落論を好きと言う人間を信じない。

堕落論」って言葉と雰囲気が好きなだけってはっきり言う奴は信じる。なぜならおれ自身もそうだからだ。

現代では堕落もファッションに墜ちたと嘆きながら今日は寝ます。
おやすみなさい。
まだ寝ないなら、僕の曲でも聴いてみてください。

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休日にDJするとシティボーイになれるとPOPEYEで読んだのですが

お題「気分転換」

 

ポパイとシティボーイ

シティボーイは本当に実在するのでしょうか?

驚くことに、おれは自らをDJと名乗り始めている。

土日の休みはもっぱらDTM(PCで音楽を作ること)にハマっている。
最近、人に休みの過ごし方を聞かれた時「日曜DJです」と言い出した。

厳密に言えば、おれがおこなっているのは、ディスクジョッキーではなくソングライティング(作曲)とラップ歌唱なので、「日曜トラックメイカー」か「日曜DTMer」か「日曜ラッパー」なのだが、呼び名にすでに市民権を得ている上に、なんか格好いいという理由でDJと名乗ることにした。

市民権をすでに得ているという点では「ラッパー」もDJに負けていないのだが、なんでか、カタカナでラッパーって書くと、すごくバカっぽいエフェクトが加わるから名乗りたくない。
そこへさらに「日曜」までついてしまうと、もう始末におえない。

日曜ラッパーの肩書きがつくくらいなら「無趣味です。では」と潔く宣言する方をおれは選ぶ。
論外。そう、日曜ラッパーは論外だ。

で、トラックメイカーとDTMerは、単語自体が一般人にまで根付いていないので、おそらく言ったとて伝わらないので却下だ。

てか伝わらずにスルーされるならまだ良いが、聞き返されると今度は説明が面倒くさい。

で、面倒くさい上に説明したとて、良い展開が待っているわけがない。

ぐだぐだ説明するほどにキャバ嬢の目が「いやそんな興味ないし」みたいに冷たくなるのが容易に想像がつく。
よって消去法で、おれは「日曜DJ」と名乗ることにしたのだ。

てか今、上の文章を書いていて思ったが、おれはよく人と話しながら先読みをする癖がある。あと知らぬ間にキャバクラに入っていた。

先読みした先に面倒な作業が待っていると気づくと、それを避けるために虚偽の報告をする。

例えば、雑談で兄弟の話とかになって、その話をさっさと切り上げたいために「おれ一人っこなんで。では」とか、
海外行ったことあります?と聞かれて話をさっさと切り上げたくて「本州から出たことないので。では」とか、そんな感じだ。

この悪意ない嘘は、嘘をつくことによるメリットがないだけに、ほぼ相手は騙される。
かくして、概ね虚偽情報で塗り固められた、おれとは別人間と言っていいほど実態と異なった人間像ができあがるのだ。

おれはPOPEYE的なシティボーイになりたかったのさ

まあなんにせよ、趣味がある休日はいい。

ただ、趣味ができて楽しいといえば楽しいが、誤算もある。
おれが当初考えていた音楽のある休日のイメージとのギャップだ。

おれが思い描いていた休日の過ごし方はこんな感じだ。

ちょっとだけ開けた窓から入ってくる季節の風。
ちょっとだけ贅沢して買ったコーヒー豆を挽いたこだわりのコーヒー。
ネコの頭をなでて観葉植物に水をあげたら、macbookを開きお気に入りのビートを紡いでいく。
昼をまわった頃、玄関が開きフルーツとワインを紙袋に入れた彼女がやってきた。
木漏れ日の中、メロウな音に肩を揺らすボクは休日DJ。
ネコを胸に抱きながら目をつぶる幸せそうな彼女。

みたいなやつだ。

POPEYEのシティボーイ特集かなんかで見たことがある気がする、いけ好かない連中のいけ好かないアーバンライフスタイル。

ずばりおれは、いけ好かない生活を送りたかった。
メロウでチルな音を、空気に薄く色をつけるように流したかった。
が、現実に流れる音は、その穏やかなイメージとはあまりにかけ離れていた。


いや、というか、今書きながら気づいたが、そもそも音うんぬんの前に、環境が全然違っている。
まずおれには、フルーツとワインを紙袋に入れて、玄関に現れる彼女がいない。
持ってくるのが牛カルビ弁当だろうがセブンの袋だろうが、とにかく彼女がいない
現れるのは、聖書を持ったおばちゃんNHKの集金ばかりだ。

観葉植物なんてもちろんこの部屋にはない。本来置けるはずのスペースには、amazonの段ボールがキャンプファイヤーできるほどに溜まっている。
植物はおろか冷蔵庫には野菜さえ入っていない。

そして驚くことに、ネコも飼っていない。
おれが重度の猫アレルギーだからだ。

想像上のおれと現実のおれとで、共通点はもはや休日に音楽を作るということくらいだ。
ここまで環境が違っていると、確実にゴールが変わる。

シティボーイへの呪詛

ゴールが変わるとは、要するに生み出される音楽の形が変わるということだ。

おれの好きなマンガ、BLUE GIANTにもある通り、感情は出す音へと直結して影響を与える。
真のミュージシャンはそうなのだ。
おれの出す音は妙に荒んでいて、敵意と怯えを剥き出しにした、凶暴な野良猫のような不穏な響きだ。

今わかった。
おれの音はシティボーイへの呪詛だ。

 

韓流ドラマ&K-POPアレルギー体質な人こそ韓国映画はめちゃハマる説

今週のお題「最近見た映画」

韓国映画パラサイト

写真一枚でもう不穏!

韓流ドラマはヘド出る。おれが好きなのは "韓国映画" だ。

おれは韓流ドラマが嫌いだ。ヘドがでる。かぼちゃと黒豆と韓流ドラマは女子の食べ物だ。
だが、おれは韓国映画が大好きだ。狂おしいほど好きだ。

脳内映画ランキングをつけたら、TOP10のうち半分は韓国が持っていくなというくらい、おれの中でダントツで強い。

聞くところによると、映画好きの中では「韓国映画のレベルはマジでやばい」というのはもう定説らしい。
が、ごく一般的な人(ここ半年で映画館で観たのは鬼滅の刃くらい)には、韓国映画の凄さはまだまだ知られていない。

おれも以前は、「韓国映画」というワードになんの魅力も感じていなかった。
最初に、友人のATSUSHIから韓国映画が超おもしろいと勧められたときも、おれの食指はピクリとも動かなかった。

いや、ピクリとも動かないどころか、韓国というだけで普通にマイナスにいっていた。

例えば、ロシアやケニアの映画が超おもしろいと言われたら、あまりにも未知すぎてそれはゼロ地点からの評価になるが、いかんせん韓国のカルチャーはすでに色々な形で日本へ流入してきている。

で、そのうちの代表的なカルチャーのひとつが「韓流ドラマ」であり、これがおれの中で、韓国の映像作品全般へのネガティブな先入観を生み出していたのだ。

韓流ドラマの色メガネ

この韓流ドラマ色メガネが、いまだに根強く一般ピーポーの脳に根付いている。
私の頭の中の消しゴムで消してやりたいほど根付いている。

だから、会社の同僚とかと映画の話になり、「韓国映画が好きっすー」というと、大体相手に驚かれる。
えー意外ですね!」と。

もうこれね、歯痒くてしょうがない
驚いている相手の頭の中に浮かんでいるのが、韓流ドラマに違いないからだ。
ガチな韓国映画を観たことがある人間なら、おれが韓国映画を好きといって、意外に感じることなんてありえないのだ。

「えー意外ですね!」ときてくれるならまだいい。
最悪なのは、
「韓国のってなんかちょっと前の日本のドラマに似てる感じでいいですよね! 私の友達もすごくハマってました」みたいに、おれに気を遣ってか、"韓流ドラマ好きのおれ"を肯定してくる奴だ。いや良い子なんだろうけど。

だが、おれの心の中は説明できない屈辱感で荒れ狂う。
思わず『ファ・ニャン・ニョン!』とつぶやいてしまったことさえある。

ちなみにファニャンニョンの意味は、「このメ●豚くされオ●コが」みたいな感じだ。

おれと韓国カルチャーは相性が悪い

基本的に、韓国から流入してきているカルチャーは、ほぼおれの肌に合わない

ばかり出る韓流ドラマや、同じ服で同じダンスをする同じ顔面の連中が商品のように並ぶK-POPとか、あの類だ。

また過去つきあっていた彼女につきあわされる形で、DVDでの鑑賞ではあるが「私の頭の中の消しゴム」や「猟奇的な彼女」など、定番と呼ばれる韓流映画(あえて韓国映画とは書かない)も鑑賞したことがあり、すべてにおいておれが思った感想は「ヘドが出る」であった。

とにかくおれは、日本でどんどん勢力を拡大しつつある韓国カルチャーを徹底的に忌避し、さらにはディスってきた。

おれが新大久保駅周辺(韓国カルチャーのメッカ)を歩いたら、オルチャンメイクのギャルたちから、罵声と石を浴びせられるだろう。

いや、それどころか、人気のない駐車場で囲まれて、唾を吐かれて股間をぐりぐりされるだろう。
ちくしょう、望むところだ。

おれの価値観を破壊した一本の韓国映画

と、まあこんな感じでおれの中で、韓国カルチャーにネガティブなイメージしかなかったのだが、それを思いっきり覆したのがATSUSHIの勧めてくれた映画『OLDBOY』だ。

まあ正直、ATSUSHIの話だけでは全然観る気にならなかったのだが、聞くにこの映画、あのクエンティン・タランティーノが大絶賛していたというのだ。

タランティーノが「グレイト。できることならパルム・ドールカンヌ国際映画祭の最高賞)はこの作品に授与したかった」と大絶賛した作品。

さーて、どんなもんかな。
と、おれは斜に構えた態度で亀田の柿の種を食べながら、ストリーミングで観はじめた。

45分後、おれはamazonオールドボーイのDVDを購入していた。

ん? と思った方。
あなたの感覚は正しい。おれの行動がおかしいのだ。
ストリーミングで映画を観ている途中で、その映画のDVDをamazonで買ったのだ。
おれだってわかっている。これはおかしい。

このおれのラリった行動を説明すると、「これは間違いなくおれ史上に残る傑作で、データだけを保持しているだけでは飽き足らず、物としてしっかり確保しておきたい」ということだ。

いやー、めっちゃくちゃ度肝を抜かれた
韓流ドラマのあのぬるい世界観の完全に真逆をいく、暴力性・生臭さ・迫力だった。
ストーリーの細かいところは色々と綻びはあれど、そんなところで語るべき映画ではない。
とにかく強烈な熱量が、今まで観てきた映画と桁違いだった。

オールドボーイ韓国映画

オールドボーイ

オールドボーイ あらすじ】
ごく平凡な人生を送っていたオ・デスはある日突然拉致され、気がつくと小さな監禁部屋にいた。
理由も知らされぬまま15年監禁され続け、ある日オ・デスはいきなり解放される。
監禁者への復讐を誓うデスの元に現れた謎の男は、5日間で監禁の理由を解き明かせと命じる。

 

オールドボーイの魅力はストーリーにあらず。

これ前に漫画「サターンリターン」について書いた時も言ったが、「オールドボーイ ネタバレ」もしかりで、もうマジで無意味だ。

この映画はいちおうミステリーやサスペンスにジャンル分けされるが、そんなところにこの映画の魅力はない
とんでもない熱量、画面全体から発する暴力性がこの映画のキモであり、むしろストーリーに囚われすぎると、この映画の価値を見失うことになる。

この映画はハリウッド版も作られているが、ちょっと観たところ完全にB級駄作だった。
ハリウッド版は悪い意味でクリーンになっており、何かが決定的に足りてないけど、それが何なのかよくわからん、みたいのが観た後のおれの感想だ。

このアジア特有の臭みにも似たエネルギーの奔流を、アメリカの食材で再現するのは無理がある。
ストーリーは一緒なのに、不思議だなあ。
ただ逆にいうと、この映画の一番の旨味はストーリーではないってことが、ハリウッド版を観てはっきりとわかった。

そしてハマる韓国映画の闇

OLDBOYをきっかけに、おれは韓国映画の重く暗く、そして激しい沼にどっぷりとハマっていった。

どれもこれも熱量がえぐくて、描写がえぐくて、生臭さがえぐくて、要するに最高かつ最強の傑作揃いだった。
韓流ドラマやK-POPを生み出した国と同じ国とは思えない

ブラボー、韓国映画
でもファ●ク、韓流ドラマ&K-POP

新大久保の人気のない駐車場でオルチャンメイクのギャルに囲まれて、唾を吐かれて股間をぐりぐりされる日まで、おれは叫び続けてやるからな。

では最後に、とりあえずこれらを観てピンとこなけりゃ、もう韓国映画は合わないと判断して良いというくらい、韓国映画らしい韓国映画をオススメしておきます。

 

シバラマ

シバラマ

【息もできない】
鑑賞すると、間違いなく「シバラマ」という単語を覚えることができる傑作映画。
シバラマの意味は「このド腐れチ●ポ野郎が!」みたいな感じ。

 

母なる証明

母なる証明

母なる証明
おれの経験上、人に勧めて一番良い反応が返ってくる作品。母の狂気的愛情は胸焼けするくらいどぎついぜ。

 

韓国映画パラサイト

パラサイト

【パラサイト 半地下の家族】
2020年、第72回カンヌ国際映画祭の最高賞・パルムドールを韓国に初めてもたらした今いちばん熱い傑作。

 

後味最悪なのにまた食べたくなり、いつしか韓国映画でなけりゃ満足できなくなるコリアンの沼で溺れましょう。

ではではおやすみなさい。

カニエ・ウェストの歌詞を訳した誰かがおれを狂わせたのさ

カニエ・ウェストのアルバム

天才カニエ・ウェストの変態性に乾杯

隙がないほど品のない曲を作りたい欲求

先日おれは、IWGPigという曲を作った。
曲名はクドカン脚本の名ドラマ・池袋ウエストゲートパークにかけている。
池袋西口の豚、という意味だ。

独身生活を送るサラリーマンが本気で曲を作るとこうなるのか。と自分でも驚いたくらい、なんていうか聴いたことのないラジカルな1曲だ。
偏執的といっていいほど、どこを切り取っても品が無いように隙間を埋めていった、隙のない品のなさが特徴的な曲で、リリックを書き終えた時は難解なパズルを完成させたような爽快感がみなぎった。

闇のパズルを自らつくり、自ら解いてダークサイドに堕ちていく。
キッズには真似してほしくない、大人の遊戯王の遊びだ。
デモバージョンを動画サイトに歌詞といっしょに上げてみたら、瞬時に非公開の制裁をくらった。

 

youtu.be

カニエ・ウェストの歌詞カードの和訳を書いた奴がおれを狂わせたのさ

ただ何をきっかけに、このような誰も幸せにならない歌が、おれから湧きあがってきたのか?

それはカニエのせいだ。むろん敬三ではなくウェストのほうだ。
アメリカ大統領選でトランプ以上におれ界隈では話題になっているお騒がせスターだ。カニエ・ウェストが変人なのは世界共通認識だが、それ以上に音楽的な才能が突出している紛れもない天才である。

で、この前に掃除をしていたら昔買ったカニエ・ウェストの傑作アルバムMy Beautiful Dark Twisted Fantasyの歌詞カードが出てきたのだ。

最近はもっぱらストリーミングかダウンロード、時たまCDを買ったとしても輸入盤だから、この日本語で訳された歌詞カードというのが、懐かしくもひどく新鮮でおれは思わず掃除をやめて熟読してみた。

「ひでえ」まず思ったことはそれだった。
そういえばそうだ思い出した。
洋楽の歌詞を日本語訳にしたものは、大体の場合で悲惨なことになるんだった、
日本語と英語の間には、無傷で往来できる道などないのだ。

とにかく洋楽を和訳すると、これは大概しくじる
割とシンプルなポップスの歌詞であろうが起こりうる現象なので、押韻ありきリズムありき売れ線でもスラング満載で過激な内容が主たるヒップホップで悲惨にならないわけがない。

たとえばこのアルバムの中のヒット曲『POWER』から数節あげてみよう。

『いいか どんな男も力を独占しちゃいけねえ チクタクチクタク時間が迫っている』
『俺のパワーで君の人生 ドキドキさせてやるぜ(最高にな)』

これ一体、どんな顔の大人がどんな顔をしながら翻訳したんだろう。
まずおれが思ったことがそれだ。
冗談が過ぎてるよ(最高にな) カニエが読んだら銃を向けてくるぞ(絶対にな)

そう、なんていうか微妙なニュアンスで伝えづらいんだけど、訳者のがんばってる感がそのがんばり度に比例してマイナスを生むのが和訳歌詞カードなのだ。

おれとしてはチクタクとかドキドキとかの小学生っぽい言葉を、大人が普通に使ってくるのがまずいけてないし全然ストリートじゃねえし通学路かよと思って萎えるし、
さらには「しちゃいけねえ」みたいに訳者がカニエを憑依させて、てかさせたせいで出てきてしまったであろう、このべらんめえ口調のキャラもきっついわと思ってしまう。
どこの江戸っ子だよ


上にあげた歌詞はそういった理由でまあ最悪だし、これ以外にも胸焼けがするほど江戸風カニエ節がでてくる。なんか江戸風カニエ節ってうまそうだな。
で、本題はここからだ。

たしかにカニエのリリックの間違った解釈はおれを萎えさせる。
ただアルバム内の訳詞の全部が全部ダメというわけでもなく、不覚にもおれのテンションをアゲる訳が時たま顔をだしてきやがるのだ。

では再び「POWER」から。

『女のア●コなんて要らねえぜ ビ●チ 俺の肉 棒で充分だ』
『もっとハッキリ言えば「おれの糞穴にチューしてろ」おれが糞男だって? 冗談が過ぎてるぜ』

これはしびれた。"女のアソコ"みたいにオーソドックスな濁し方をしたかと思えば、その直後に"肉 棒"みたいな160キロ直球を投げ込んでくるこの緩急のつけ方。

お嬢さんをエスコートしながら、下は全裸みたいな、気を遣ってんだか何をしたいんだかのどっちつかずなアンバランス感がダメな変態ぽくて良い。おれの例えも崩れだしてる。

あとこれは強く思ったがカニエの風体に"肉 棒"というワードが妙に合ってていい。
曲名の「POWER」に新たな力がギンギンにみなぎる気がする。
はっ、そういえばカニエ・ウェストはふんどしも似合う気がする。

あれ、だとすると訳者が憑依させた江戸っ子のカニエ像は、あながち的はずれではないかもしれないのではないか…。

いや、はずれだよ。あぶねえあぶねえ。

まあいい。次は満を持しての必殺ワードの登場だ。
お待たせしました。「糞穴」の登場だ。

もうほんとね、これはすごい。
だって「糞穴」って単語、人生で初めて見たよ。
狂った翻訳ソフトが提示してきたような正気の人間では思いつかないような、ド直球のストレートだ。
「肛門」よりもさらにストレートなのが、「糞穴」のすごさを物語っている。


とにかく、人生でこんな日がくるとは思わなかったが、おれは「糞穴」という言葉にひどく感動した。

そして改めて全曲の歌詞を眺めてみて、HipHopってやっぱこの下品さ下劣さがカルチャーとして根付いている分野だな、と再確認をした。
もちろん良い意味でだ。


My Beautiful Dark Twisted Fantasy
って超売れたし、2010年代を代表する一枚の定番でもあるけど、Mステで歌える歌詞じゃない曲ばっかりだもんな。


当時、もしカニエが来日してMステに出演してたら「POWER」のテロップはどう処理していたのだろう。
まさかの「糞穴」のお茶の間デビューがあったのだろうか。

とにかくこの「糞穴」の衝撃でおれの目は覚めた。

どうやらおれはシャレオツな休日DJに憧れるあまり、おとなしくなりすぎていたようだ。
おれはなんでもありなパンクさを気に入ってHipHopを好きになったんじゃないか。


よし、おれも作ろう。豚野郎による、豚野郎どもに捧げる歌を作ろう。

そして目覚めたおれが作ったのが、最初にリンクを貼った「IWGPig」ってわけなのです。
アルバムの中で一番気に入ってるんだけど全然評価されない不遇なやつです。

ではでは。

www.tunecore.co.jp