今週のお題「人生で一番高い買い物」
私の履いてきた靴史上、もっとも高価な一足がこのトリッカーズ のカントリーブーツだ。
M5634 ストウ(STOW)というトリッカーズを代表するモデル(※シーシェイドカラーの同デザインモデルはM2508 モールトン)で、もう何年にもわたる相棒である。
トリッカーズはご存知の通りファッショニスタ御用達、だけではとどまらず英国王室御用達である『ロイヤルワラント』を授かっている、由緒正しき英国靴のブランドである。
トリッカーズとはどんなブランド?
トリッカーズ(Tricker′s)は1829年に創業した、革靴の聖地・ノーサンプトン最古の歴史を持つシューズファクトリーである。
そのクオリティの高さから、先の通り『ロイヤルワラント(英国王室御用達)』を授かっている、名実ともにイギリスを代表する靴ブランドのひとつである。
「美しき戦車」とも評される、エレガントさと重厚さを兼ね備えたデザインで、世界中のファッションフリークから支持を得るブランドである。
精巧なウイングチップと美しいメダリオン(穴飾り)。
手間隙かかるグッドイヤーウェルト製法による優れた耐久性。
ベンチメイドと呼ばれる男心をびんびんにくすぐる制作過程(一人の職人がベンチに座って丹精こめて作る。靴には制作を手掛けた職人の名前がサインされる)を経て生まれるこの傑作ブーツは、その頑強な作りから一生ものとされ、一度手にしたら簡単には手放せない魅力にあふれた靴である。
しかし、この名作ブーツを一度手にして簡単に手放した男がいる。
それがおれの長年の友人・Yだ。
彼のおかげで、おれはこの一生もののブーツを手に入れることができた。
そう、彼はこの名靴トリッカーズのカントリーブーツを、一生どころか一度履いただけでおれに譲ってくれた漢なのだ。
トリッカーズに一目惚れしたあの日
そもそもおれは靴にはそこまでのこだわりはなく、基本的にスニーカー、ちょっときれいめにいくかという時もせいぜいクラークスやジャランスリワヤのブーツを履くくらいである。
対して友人Yは革靴、特に英国靴に対する熱量が尋常でなく、靴を買いすぎて破産しかけたという武勇伝を持つ猛者である。
で、エドワードグリーンやジョンロブ、チャーチなど、イギリスが世界に誇るブランドを若くして履いてきた彼が次に選んだのがトリッカーズであった。
もう何年も前の北風吹く12月に彼はトリッカーズを購入した。
そして、その日おれは偶然にその買い物に付き合っていた。
当時職もなく金もなく、ただただ時間だけがあったおれは、ヒマゆえにYの買い物に付き合ったものの買える物がなく、ウン万円する革靴が並ぶ棚を前にして「こんなもん買う奴は正気じゃねえな」と思いながら靴を手に取り、ただただ店員のストレスを煽っていた。
隣では、正気じゃない友人Yが慣れた口調で店員と話しながら、様々な高級靴を取り寄せて試し履きしていた。
そんな感じで、最初は無関心の極みだったおれだが、Yが黒いトリッカーズのカントリーブーツを試着したとき、体に電撃が走った。
めちゃくちゃ格好良いと思った。一目惚れだった。
革靴ど素人のおれでもわかる丁寧で美しい作り、履いたときのシルエット。
にもかかわらず、どっしりと重厚で頑強なたたずまいは、『英国王室御用達』というモヤシ野郎のイメージとはほど遠い、粗野でロックな魅力に溢れていた。
この瞬間、おれはこの靴を手に入れようと決意した。
もっと具体的に言えば、Yから譲ってもらおうと決意した。
その為には、まずYにこの靴を買ってもらわなくてはならない。
おれは密かにトリッカーズをググり、今知ったばかりの蘊蓄を交えたプレゼンを始め「ここで買わなきゃ後悔するぞ、うん絶対するな」と店員以上に彼の購買意欲を煽り、それが功を奏したかわからないが、最終的にYは「これください」と高らかに店員に告げた。
カラーもおれの希望通りの色、鈍く上品に輝く黒色だ。
「勝った」とおれは思った。
トリッカーズを手に入れたあの日
Yがいずれ飽きたらもらおうと思っていたトリッカーズだったが、それは予想以上にすぐにやってきた。
購入した帰り道、我慢できずに早速トリッカーズに履き替えたYだったが、そこですでに破局の予兆は出ていた。
まずはデザイン。
トリッカーズの靴は甲が低く横から見るとめちゃくちゃエレガントなのだが、真上から見るとコバ(靴底の側面が)が非常に広くとられていて、ちょっと間の抜けたのっぺりした印象に変わる。
これを野暮ったいととるか、ワイルドととるかはその人次第なのだが、普段スマートな英国靴に慣れたYは前者だったようだ。
その次に、おろしたばかりのトリッカーズの履きにくさ。
これはいずれおれも体験するのだが、新品のトリッカーズはとにかく硬い。そして何者かに重りを仕込まれたように重い。
駅までふらふらと歩くYの姿を見て、おれはこの靴が近い将来おれのものになることを確信した。
Yは一度覚えた違和感を忘れない男だ。
そして購入から三ヶ月後、「あのトリッカーズまだ履いてる?」というおれの確信的なメールをきっかけに、トリッカーズはおれの足元にやってきた。
おれはYへの漢気に報いるべく、精一杯の感謝の気持ちを込めて、日高屋でピリ辛とんこつネギラーメン(モリモリサービス券利用)をご馳走した。
トリッカーズのエイジングという長い旅
心優しきYより譲ってもらったトリッカーズ。
これを初めて履いて外出した日のことは忘れない。
もう二度と履くかと思った。
足が痛すぎてちぎれるかと思った。
履きはじめのトリッカーズは革製じゃない。
ほぼ鉄製だ。
ほとんど拷問器具のようなその硬さは、おれに英国紳士となる道程の厳しさを教えてくれた。
おれは時折ニューバランスに逃げ込みながらも、先人となるトリッカーズユーザーのブログを読み漁ってこの拷問タイムに耐えた。
『時間をかけて履き込んでいったトリッカーズの靴は"自分だけのフィット感"という、オーダーメイドのような最高の満足感が得られます。もう靴はトリッカーズ以外履けなくなります』
--ほんまかいなこの靴フェチ野郎と半信半疑になりながらも、おれは痛みをこらえて履き続けた。
逆におれの足がトリッカーズの形にフィットしそうなくらい硬かった。
だが、そんなこんなで数ヶ月経った頃、おれはトリッカーズを履くことが苦になっていないことに気づいた。
そう、あの硬質なること鉄の如しだった革が、おれの稼働箇所だけくにゃんくにゃんに柔らかくなっていたのだ。
ガッチガチだったアウトソールもグッドイヤーウェルト製法の糸がほどよく緩み、まるで靴がおれという持ち主を記憶したかのように劇的に履きやすくなった。
なるほど、これが先人の靴フェチ野郎がブログに書いていた感覚か。
とはいえそれから時が経ちリペアも繰り返し、もうおれの歩き癖の全てを記憶したトリッカーズだが「もう靴はトリッカーズ以外履けなくなります」にはなっていない。てかこれは絶対一生ならない。
異論のあるマニアにはニューバランスを履かせます。
トリッカーズでエイジングを楽しむならマロンかエイコーン
トリッカーズに対して相棒としての愛着を覚えている今でも、ひとつだけ後悔していることがある。
それは数あるカラーの中からブラックを選んでしまったことだ。(正確にはYが選んだのだがね)
トリッカーズのエイジングの醍醐味として、履き心地が自分仕様になっていくのは先に話した通りだが、もうひとつのポイントは色合いの変化である。
傷もシミも"味わい"になり、使う靴墨により多様な変化を楽しめるトリッカーズ。
--それはマロンかエイコーンなど茶系のカラーを選んだときの話だ。
『トリッカーズ エイジング』で検索して出てくる魅惑的な画像はほぼ茶系のカラーであり、ブラックでエイジングを楽しんでいる奴なんていやしない。
それくらい茶色は実に良い経年変化を見せてくれ、黒色は変化が乏しいのである。
おれが黒のトリッカーズのエイジングに注いできた時間と労力を、茶色のトリッカーズに注いでいたら、どんな劇的な変化を見せただろう。
それは「マツキヨカードをあの時作っておけば」「Tカードはお持ちですか?に面倒くさがらずちゃんと出しておいたら今頃は」同様に、トリッカーズを履くたびにどうしても考えてしまう詮ない思いである。
とはいえ写真の通り、雨の日も風の日も酸いも甘いも乗り越え、オールソール(靴底全交換)や内部補修等のリペアを繰り返してきた黒トリッカーズへの愛着は、もはや他のトリッカーズでは代えのきかないものだし、あの地獄の鉄製トリッカーズの時代をもう一度乗り越えられるとは思えない。
というわけで今後も浮気はしないから、一緒に棺桶に入るまで人生を共にしましょう黒トリッカーズ。
そして、この相棒を譲ってくれてありがとうY。また日高屋につれていきます。