この丸メガネはミュージシャンなの?

音楽ブログを早々に諦め、ゆるめのサブカルブログへ男は舵をきった

池袋ウエストゲートパークの作者は石田衣良でなくクドカンなり

今週のお題「もう一度見たいドラマ」

窪塚キング

ドラマ史上に残るカリスマ・窪塚キングを生み出したクドカンは偉大よ

なるほど、もう一度見たい名作ドラマとね

今週のお題が「もう一度見たいドラマ」ということで、ドラマ評を書こうと思った。

と、よく読むと無駄な一行をいきなり書いてしまって、執筆のモチベーションが一気に下がる事態に陥っている。

そりゃそうだ。
今週のお題が「もう一度見たいドラマ」ということで、この前食べたラーメン二郎について書こうと思った。』とはならない。
おれが読者として一行目を読んだら、「こいつIQ低いな」と思いすぐページを閉じる。

と、ぐだぐだ言い訳しているのなら削除すればいいだろ。
とも思うが、削除をして一度まっさらにしてしまったら、そもそものブログを書く気が完全に失せる自信がある。

脱線終了。もう一度見たいドラマとね

で、今週のテーマに戻すと「もう一度見たいドラマ」というのは、言葉通りに捉えると特にない。
「もう一度見たい」ということは、つまり現状ではすぐにそのお目当てのドラマが見られない状況であるということだ。
ありとあらゆる方法で情報収集が可能なこの時代で、そんな「再放送を待ってます」状態になることはまずない。

と、ぐだぐだ言ってるなら、もうこのテーマで書くなよと思う。
おれが読者として上の文を読んだら「なんか面倒だなこいつ」と思いすぐページを閉じる。


まだおれにはギリギリの客観性が残っているようだ。
書かれていないことの意味まで読み取る日本人特有の長所を活かして、「もう一度見たい(と言いたくなるくらい大好きな)ドラマ」として書いてみよう。


ドラマ史上に残る天才脚本家・クドカンこと宮藤官九郎

なんだかんだで、脚本家はクドカンこと宮藤官九郎の一択だ。
木更津キャッツアイタイガー&ドラゴンあまちゃんなど、ドラマ史上に残る傑作を生み出してきた怪物作家だ。

いわずもがな超売れっ子脚本家のイメージのついているクドカンだが、それでもまだ過小評価と感じるくらい、他の脚本家とは別次元にいる人だと思う。

クドカンが偉大な点はいくつもあって、いくつもありすぎるが故にまとまらないことにも気づいてしまったが、とにかく一言でいえば、
クドカンの前にクドカンなし。クドカンの後にクドカンなし」と言える圧倒的なオリジナリティだろう。

既存のテレビドラマに脈絡と受け継がれてきたセオリーからは、まず生まれない突然変異的なモンスターである。
なので、時代が経っても古びていくのはドラマ当時の背景ばかりで、魅力が衰えない。

なおかつ他のドラマで代替がきかないというか、クドカンのドラマにはまると、その欲を満たせるのがクドカンのドラマだけになってしまう、オンリーワンの存在というところも偉大だ。
その存在をグルメ界でいうなら、完全にラーメン二郎にあたるだろう。

まさかのラーメン二郎伏線回収だ。


天才は天才を知るのだ

おれの好きなクドカン絡みのエピソードで
三谷幸喜木更津キャッツアイを初めて見た際にあまりの敗北感で筆を折ろうと思った」というものがある。
これは「エリック・クラプトンがジミヘンの演奏を初めて聴いた際にあまりの敗北感でギターをやめようと思った」に並ぶ、天才が天才を知る系エピソードのツートップだ。


とにかくそれくらい、クドカンは規格外だったということだ。
特に三谷幸喜はコメディ的な要素を武器のひとつとしているだけに、クドカンの笑いの才能を敏感に察したのだろう。

笑いの要素についてはドラマ業界では軽んじられているところがあり、要素をまったく取り入れられないか、一部取り入れられたとしても時代の最先端の笑いのセンスとは大きく差のある、ベタなお約束コメディが定番だった。

そこに現代的なソリッドな笑いをぶちこむことに初めて成功したのがクドカンだ。
この一点だけでも、クドカンを称える理由になる。


最高傑作は間違いなく木更津キャッツアイなんだけど

恐ろしいことに今までのはすべて前置きで、ここからが今週のお題「もう一度見たいドラマ」の本編だ。

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プレゼントをくれるサンタさんは鏡に映る自分でした。

今週のお題「自分にご褒美」

 

サンタ女子

武士のクリスマスに女子は不要でござる


自分へのクリスマスプレゼントは年に一度の楽しみだ

去年の12月からあっという間に1年がたち、またしても12月がきた。

時間の経つスピードがえぐいくらいに早い。
正直、体感的には去年のクリスマスなんて、2〜3ヶ月前のことじゃないかと思えるくらいの、いかれた "あっという間感" だ。

ここ3〜4年くらいの無限ループ感が凄まじい。
これはつまり、自らの状況が何も変わっていないからに違いない。

精神的な成長も肉体的な成長もとっくに止まり、我が子の入学式などのライフイベントもなかったし、というか結婚してないからそもそも子供がいないしと、変化がないゆえの無限ループ感だ。

それはいいとして、今週のお題の「自分にご褒美」の時期としてもっともふさわしいのが、やはり12月、もっといえばクリスマスなのは間違いない。

とはいえおれはクリスマス以外にも、自分へご褒美をよくあげている

このブログを2〜3回のぞいたことがある人ならお気づきだと思うが、おれは自分にすこぶる甘い。

おれはよく、会社の後輩女子から「優しいですね」と言われることが多いのだが、それはおれの性根が優しいわけではない。
ただただ、性根がぬるくて甘いだけなのだ。

甘さと優しさは全然ちがう。それをきみには気づいてほしい。
そしてもっと言えば、それはきみへの甘さでなく、おれ自身への甘いリターンを期待してのものだ。

要するに「きみへの対応を甘くするから、おれへの対応も甘くしてね」というものだ。
そういう男なんだ、ぼかぁ。

ちなみに「優しいですね」と言ってくるはおおむね後輩女子で、後輩男子からは「あの人ぜんぜん絡む気ないっすね」と思われているだろう。
これはただただ、下心がもたらす差分だ。


で、おれはその自分への甘さゆえに、割と頻繁にご褒美を自らへあげている。
ただそのご褒美にもランクづけがある。

案件の大きさによって、「松竹梅」の3段階に分かれているのだ。
そしてクリスマスは、年に一度の松が発動するタイミングだ。

マッチポンプ☆サンタというニューノーマルなイベント

毎年クリスマスになると、おれは自分へプレゼントを送る、優しいサンタクロースとなる。
自分で選んだプレゼントを、自分の金で買い、自分に送り、自分で喜ぶ。
サンタクロースのマッチポンプ状態だ 。

おれはこの行為を「マッチポンプ☆サンタ」と名付けている。
☆がついているのは、おれのはしゃいでいる心境を如実に表している。

ちなみにせっかくなので、竹と梅も説明しておこう。

梅は比較的に小さなご褒美で、わりと多用される。
仕事がひと段落したときに買うコーラ、仕事がひと段落したときに吸うアイコス、ちゃんと出勤したことへのご褒美ランチ、ちゃんと定時まで出勤し続けたことへのご褒美アルコールなどだ。
大体デイリーで10回以上はあるご褒美イベントだ。

竹はもう少々期間を置いて大体3ヶ月に1回程度だ。
梅と比べて動く額もあがる。
衝動買いをするかしないかについて、脳内財務大臣が会議を開く規模の案件である。

今おれの視界に入ってる物でいえば、マーシャルアンプを模したBluetoothスピーカー、KORGシンセサイザー「volcaシリーズ各種」、増税直前に買ったギター「ジャガー 」などが竹にあたる。

また本来、松の名目であるはずのMacBookも、今年は衝動を抑えられず竹の名目のもと購入した。

これは今年の脳内財務大臣最大の判断ミスだった。
一ヶ月前に新たにでた現行MacBookの飛躍した性能の話を聞くたびに、その購入タイミングに悔いが残るばかりだ。

で、今年のクリスマスは何をおれに送ろうか

上記の通り、ちょっと前にMacBookという買い物をしただけに、今年は何を買おうか迷うところだ。

ただ、これは贅沢な悩みだが、iPadiPhone、新しいジーンズ、新しいコートなど、そこそこ欲しい物はあるのだが、なんとしても超絶に欲しいという物がないのだ。

強いて言えば、現行のMacBookなのだが、それを買ってしまうと、なにかに負けた気がするので、手をだすわけにはいかない。

まあでも、何買おうかなって迷いながらamazonをさまよっている時間が、実はいちばん楽しい時間なのかもしれない。

では良いクリスマスを。
ぼくはamazonという深い密林へ迷い込んできます。

堕落論と人間失格は本棚用のファッションと聞きました

今週のお題「我が家の本棚」

坂口安吾の部屋

堕落せよ

 

堕落とかの前に、新型コロナへの緊迫感のなさが危機感を覚えるレベル

新型コロナが、またしても勢力を拡大している。

春夏の時点で、冬頃に改めて波がくるだろうと予想されていた通り、やはり再度のコロナ禍はやってきて、東京での感染者は毎日歴代最多を更新しているような有様だ。

しかし、前回パニック映画さながらの世界になった時と比べて、今のこの安心しきったぬるま湯みたいな雰囲気はなんなのだ。

Go Toキャンペーンだなんだと一時的に警戒が解かれたときと、ほぼ変わりのない緊迫感のなさだ。事実、街には普通に人があふれ、そこら中で密が発生している。

なんだろう、1は怖かったゾンビ映画も3くらいになったら、見慣れすぎてもう怖くないみたいな、そんな感じなのだろうか。

ある意味、これがwithコロナの正解の姿なのだろうか。
ただ、それにしたってこの社会全体にあふれる安堵感は、とても怖いものがある。

ちなみに本来書きたかったテーマは、わりと下のほうにいかないと出てこない。
余談のほうが熱量の高いブログになってきている。

 

ただそもそも人間の脳はめっちゃ楽天的な処理をするらしい

人間の脳には、インプットされた情報を楽観的に処理しようとする働きがあると、サラリーマンにして哲学者の友人・ATSUSHIがHUBで言っていた。

自分だけは大丈夫。その考えは生存本能につながる自然な思考回路らしい。

わからなくはない。おれもなんだかんだ、自分だけはコロナにかからない気になっている部分もある。

ATSUSHIは豊富な知識で巧みに信憑性をマシマシにしながら、肝心な部分で意図的に大嘘をついてくる天才的なペテン野郎だが、その説はなにげに本当のような気がする。

不幸にとって一番悲劇なのは、その存在を笑いに変えられること

あとこれはおれの美学というか、人生へのファイティングポーズだが、死を含めた不幸な出来事をすべて笑いとばしたいという欲求がある。

そう、全部笑いに変えてやりたい。

人間はどん底でも、そのどん底で這い回る姿を笑うことができれば、なんとか生きていけるのではないか。
死や不幸にとって一番悲劇なのは、その存在を笑いに変えられることなのではないか。
そう無表情の中で、熱く思っている。

アルコールのせいか脈絡なく格好いいことを言ってしまった。
すまない。

iTunesでTOP50にランクインした

まあ待っているのが悲劇にしろ、とにかく生きていかなくてはいけないのだ。

それに明日がわからぬこの状態であっても、少なくとも今日の時点ではやらなきゃいけない仕事だって山積みだ。

よし、やるか!

上記の決意をしてから、1時間が経った。
よし、やるか!と書いたおれは、コーヒーの湯気と共に消え失せたようだ。

明日なき身でなにが悲しくて仕事やらなきゃいけないのだ。
やめだやめだ、酒もってこい!
というわけで、仕事を捨てた時間でまた曲を作った。


ちなみにこの曲の入ったアルバムがiTunesで26位」になっていたと先週知った。

自身でも半信半疑だが、ちょっと箔がついた。

 

youtu.be

 

この曲は堕落論(内容ではなく題名から匂いたつイメージ)をもとに膨らませていった、なかなかに文学的な一曲だ。

そういえば人間は情報を楽観的にうんぬんの内容を、坂口安吾堕落論でも書いてあったのを、すごく薄ぼんやり記憶している。

なんか空襲で街が燃えてるようなすげえやばい時でも少女たちはめっちゃ笑ってるし、けっこうみんな呑気でちょっとワクワクしている。
みたいなことを書いているような部分が、なんだかあったような気がする。

そのシーンがあったか確かめるにも、手元に堕落論心に気力がないから、話半分で聞いておいてください。

とにかく昭和初期、ノイジーで混沌とした妖しさ漂うあの昭和初期のダンスホールカフェーの淀んだ空気感を意識した曲だ。

おれ feat.江戸川乱歩

ただ作りこんでいくうちに坂口安吾からはどんどん離れ、どちらかといえば江戸川乱歩の世界観にめっちゃ近づいていった。
要するにエログロナンセンスな感じだ。
曲に「feat. 江戸川乱歩」とつけたいくらい、かなり濃度の高い乱歩度だ。

もう途中から「堕落論」は形だけの存在になって、奥田民生のマシマロは関係ない本文と関係ないみたいな状態になった

堕落論って言葉が格好いいと思っているだけだろ

で、こっからは偏見と独断によるおれの堕落論論だ。
ずっと思ってたのだが、堕落論が好きって言う奴は、本の内容ではなく堕落論」という言葉に魅力を感じてるだけなのではないだろうか。

高円寺あたりには今も「好きな本は堕落論」みたいなことを言う奴が多くいる。
少なくとも、おれの好きだった女子の元彼は、高円寺に住んでいて堕落論が好きだという奴らしい。

で、おれは上記のような堕落論フリークの連中に思うところがある。
私情は抜きにしても思うところがある。

堕落論』て言葉に惹かれているだけだろう。堕落論』って言葉がかっこいいと思ってるだけだろう、と。

はっきり言って、堕落論を好きという奴の8割超は、堕落論読んだことがないとさえ思っている。
もちろん、続編の「続堕落論にいたっては、存在も知らないのではないかと思っている。

堕落論(と人間失格)は読んでなくても、小脇に抱えていれば格好いい本、もしくは本棚に置いてあればそれだけで格好いい本、みたいにファッションとして好きと言っているだけだと思っている。

まあなんでそう思うかというと、堕落論って単語と、坂口安吾っていう退廃的かつ無頼派のイメージが、それだけ格好よすぎるからだ。
本を読んでなくても格好いいと思えるくらい、イメージが先行してしまっている。
太宰治しかり、中原中也しかり、文豪ストレイドッグスどもの退廃的な格好よさは、ミーハーを引きつけるほど中2病の光を放っている。

大体、今この令和に生きている人間が、堕落論を読んで感動なんてするわけないのだ。
感動っていうか、共感なんかするわけがないのだ。

あれは感覚がある種いかれて麻痺してた戦中の日本人の道徳観を前提として書かれている内容だからだ。
で、あの時代の「一般的な感覚」自体が、現代人とめちゃくちゃずれているから、結局あの本のメインテーマである「堕落」の定義も、2000年代を生きている日本人の「堕落」とがっつりずれているのだ。

だからおれは、堕落論を好きと言う人間を信じない。

堕落論」って言葉と雰囲気が好きなだけってはっきり言う奴は信じる。なぜならおれ自身もそうだからだ。

現代では堕落もファッションに墜ちたと嘆きながら今日は寝ます。
おやすみなさい。
まだ寝ないなら、僕の曲でも聴いてみてください。

linkco.re

 

休日にDJするとシティボーイになれるとPOPEYEで読んだのですが

お題「気分転換」

 

ポパイとシティボーイ

シティボーイは本当に実在するのでしょうか?

驚くことに、おれは自らをDJと名乗り始めている。

土日の休みはもっぱらDTM(PCで音楽を作ること)にハマっている。
最近、人に休みの過ごし方を聞かれた時「日曜DJです」と言い出した。

厳密に言えば、おれがおこなっているのは、ディスクジョッキーではなくソングライティング(作曲)とラップ歌唱なので、「日曜トラックメイカー」か「日曜DTMer」か「日曜ラッパー」なのだが、呼び名にすでに市民権を得ている上に、なんか格好いいという理由でDJと名乗ることにした。

市民権をすでに得ているという点では「ラッパー」もDJに負けていないのだが、なんでか、カタカナでラッパーって書くと、すごくバカっぽいエフェクトが加わるから名乗りたくない。
そこへさらに「日曜」までついてしまうと、もう始末におえない。

日曜ラッパーの肩書きがつくくらいなら「無趣味です。では」と潔く宣言する方をおれは選ぶ。
論外。そう、日曜ラッパーは論外だ。

で、トラックメイカーとDTMerは、単語自体が一般人にまで根付いていないので、おそらく言ったとて伝わらないので却下だ。

てか伝わらずにスルーされるならまだ良いが、聞き返されると今度は説明が面倒くさい。

で、面倒くさい上に説明したとて、良い展開が待っているわけがない。

ぐだぐだ説明するほどにキャバ嬢の目が「いやそんな興味ないし」みたいに冷たくなるのが容易に想像がつく。
よって消去法で、おれは「日曜DJ」と名乗ることにしたのだ。

てか今、上の文章を書いていて思ったが、おれはよく人と話しながら先読みをする癖がある。あと知らぬ間にキャバクラに入っていた。

先読みした先に面倒な作業が待っていると気づくと、それを避けるために虚偽の報告をする。

例えば、雑談で兄弟の話とかになって、その話をさっさと切り上げたいために「おれ一人っこなんで。では」とか、
海外行ったことあります?と聞かれて話をさっさと切り上げたくて「本州から出たことないので。では」とか、そんな感じだ。

この悪意ない嘘は、嘘をつくことによるメリットがないだけに、ほぼ相手は騙される。
かくして、概ね虚偽情報で塗り固められた、おれとは別人間と言っていいほど実態と異なった人間像ができあがるのだ。

おれはPOPEYE的なシティボーイになりたかったのさ

まあなんにせよ、趣味がある休日はいい。

ただ、趣味ができて楽しいといえば楽しいが、誤算もある。
おれが当初考えていた音楽のある休日のイメージとのギャップだ。

おれが思い描いていた休日の過ごし方はこんな感じだ。

ちょっとだけ開けた窓から入ってくる季節の風。
ちょっとだけ贅沢して買ったコーヒー豆を挽いたこだわりのコーヒー。
ネコの頭をなでて観葉植物に水をあげたら、macbookを開きお気に入りのビートを紡いでいく。
昼をまわった頃、玄関が開きフルーツとワインを紙袋に入れた彼女がやってきた。
木漏れ日の中、メロウな音に肩を揺らすボクは休日DJ。
ネコを胸に抱きながら目をつぶる幸せそうな彼女。

みたいなやつだ。

POPEYEのシティボーイ特集かなんかで見たことがある気がする、いけ好かない連中のいけ好かないアーバンライフスタイル。

ずばりおれは、いけ好かない生活を送りたかった。
メロウでチルな音を、空気に薄く色をつけるように流したかった。
が、現実に流れる音は、その穏やかなイメージとはあまりにかけ離れていた。


いや、というか、今書きながら気づいたが、そもそも音うんぬんの前に、環境が全然違っている。
まずおれには、フルーツとワインを紙袋に入れて、玄関に現れる彼女がいない。
持ってくるのが牛カルビ弁当だろうがセブンの袋だろうが、とにかく彼女がいない
現れるのは、聖書を持ったおばちゃんNHKの集金ばかりだ。

観葉植物なんてもちろんこの部屋にはない。本来置けるはずのスペースには、amazonの段ボールがキャンプファイヤーできるほどに溜まっている。
植物はおろか冷蔵庫には野菜さえ入っていない。

そして驚くことに、ネコも飼っていない。
おれが重度の猫アレルギーだからだ。

想像上のおれと現実のおれとで、共通点はもはや休日に音楽を作るということくらいだ。
ここまで環境が違っていると、確実にゴールが変わる。

シティボーイへの呪詛

ゴールが変わるとは、要するに生み出される音楽の形が変わるということだ。

おれの好きなマンガ、BLUE GIANTにもある通り、感情は出す音へと直結して影響を与える。
真のミュージシャンはそうなのだ。
おれの出す音は妙に荒んでいて、敵意と怯えを剥き出しにした、凶暴な野良猫のような不穏な響きだ。

今わかった。
おれの音はシティボーイへの呪詛だ。